【10月13日】 ヤコブの手紙1章1-4節「様々な試練にあうときは」⑵
「試練」は「誘惑」とも訳せることばである。神が誘惑を与えるのではない。
私たちは試練の中で自らの弱さゆえに内側から誘惑が生じるのである。
しもべとして生活するよりも、もっと自分の好きなように生活したい。そんな誘惑だ。
けれども、私たち主のしもべにはご聖霊がもう一つ別のものを生み出してくださる。
それが「忍耐」だ。動詞形に直すと「踏みとどまる」という意味になる。
ヤコブは、「その忍耐を完全に働かせなさい」と言い、ここだけ能動態を用いている。
忍耐が自動的に働くのではない。試練の中でこそ、主の御旨に踏みとどまることを自ら選び取るのである。
そうすれば、子どものような自分中心の信仰ではなく、成熟したしもべとして神のみことばを行う者となる。
ご聖霊が湧き起こさせてくださる救いの喜びに励まされつつ、忍耐を完全に働かせるしもべの歩みをしたい。
【10月6日】 ヤコブの手紙1章1-4節「様々な試練にあうときは」
イエス様の実の兄弟ヤコブが「神のしもべ」と自己紹介している。
さらに、イエスを「主キリスト」と呼び、神と並べて
「神と主イエス・キリストのしもべ」と自らを呼んでいる。
「しもべ」は旧約聖書において預言者に付された称号であった。
奴隷として主人に仕えるへりくだりと、主のことばを取り次ぐ人の権威が合わさったことば、
それが「しもべ」なのだ。
私たちもまた、「神と主イエス・キリストのしもべ」である。自覚を持って生活したい。
【9月29日】 ヨハネの黙示録2章8-12節「死に至るまで忠実であれ」
相島功師よりみことばが取り次がれた。
【9月22日】 ヨブ記42章「祈る人」
ヨブに解決がもたらされた。苦しみに対する直接的な答えがあったわけではない。
神の沈黙の理由について語られたのでもない。
神が嵐の中からヨブに答えられた内容(38章)は、神が世界の基を据えたということ。
そして、ヨブも主の御手によって造られたということ。
私たちは苦しみの意味をすべて知ることはできない。
しかし、確かな事実がここにある。それは、あなたもまた、愛の御手で造られた神の民であるということ。
【9月15日】 ローマ人への手紙12章15-16節「ともに喜び、ともに泣き」(創立42周年記念礼拝)
パウロはどこにでも掲げられているような標語として、15節を書き送ったのだろうか。
そうではない。教会にこそ書き送らなければならなかった。
教会にしかない交わりがある。「罪」を悲しみ、「赦し」を喜ぶということ。
私たちは主に呼び集められた神の家族である。
互いにさばくのではなく、自らのからだを聖なる生きたささげ物として献げる群れとして、ともに赦しを喜
び、罪に泣く家族とさせていただきたい。
【9月8日】 レビ記19章32節「年配者を敬うこと」(敬老感謝礼拝)
本日の礼拝が、昨年度に続き、敬老感謝礼拝としてささげられていることを主に感謝したい。
私たちは他の教会がそうであるように “子どもも一緒の礼拝” を大切にしている。
よく考えたい。子どもも “と” でも、子ども “が” ではない。子ども “も” 一緒の礼拝。
ここには年配者への歓迎が大前提にある。主は、年配者を歓迎しておられるのだ。
この世においては、若さや力強さに魅力があるかのように訴えかけられる。
しかし、聖書はそうではない。年を重ねて白髪(栄えの冠)を纏うことにも魅力があると語る。
だからこそ、私たちは年配者に対する敬意を示し、日ごろの感謝を言い表す者でありたい。
それが「あなたの神を恐れる」者としての歩みである。
【9月1日】 ヨブ記2-31章「慰める人」
ヨブの隣でともに悲しむ人がいた。3人の友人らである。七日七夜を何も言わずに過ごしてくれた。
ヨブにとってどれほどの慰めになってことだろうか。
ところが、彼らはヨブが口を開いた途端に言葉を重ねていくのである。
ヨブの口から言い表された苦しみは、「なぜ神は沈黙しているのか」というもの。
自分の罪と度重なる苦難はどう考えても不釣り合いである。使いや妻や友人らが言葉を重ねて中、
なぜ最も欲している神からの語りかけは無いのか。これがヨブの苦しみであったことが明かされる。
これに対して友人らが次から次へと持論を展開させるのである。
慰める人であった彼らが応報神学を持ち出してヨブを責め立てていく。
友人らの初めの慰めに立ち返りたい。
「彼らは声をあげて泣き(中略)、一言も彼に話しかけなかった。」
私たちはどうだろうか。神の家族を慰める人として、何をすることができるだろうか。
【8月25日】 ヨブ記2章「わざわいを受ける人」
今度はヨブの身に痛みが襲った。「悪性の腫物」が全身に与えられたのである。
これまで、「与えられる」ことにおいては、祝福に満ちていた。
だが、今回は「取られる」ことのみならず、「与えられる」ことにおいてもわざわいを受けた。
灰の中に座りながら土器のかけらで全身をかきむしり続けるヨブ。
そんなヨブに、一体となった存在である妻が、「神を呪って死になさい」と言う。
しかし、ヨブはこれらすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
出来事には舞台裏がある、ということを私たちはヨブ記を通じて知らされる。
そして、そこで何が行われているかは知らなくても、
そこに神がおられ、その神が主権を握っておられるということも知らされている。
悪しき力にはるかに上回る主権者が、私たちとともにいて、導いてくださる。
「わざわいも受けるべきではないか。」
ここに、ヨブの神への信頼とへりくだりを見るのである。
【8月18日】 ヨブ記1章「ひれ伏す人」
ある日、サタンのヨブに対する挑発が突如始まった。
人災、自然災害、人災、またか…またか…
絶望的な状況にあるヨブに、さらなる訃報が届いた。「あなたの子どもたちが亡くなりました。」
このときのヨブが取った20節の行動は、悲しみを表すものであった。当然、悲しまずにはおれない。
けれどもヨブは、そこから起こされ、主を礼拝して言うのである。
「主の御名はほむべきかな。」
悲しみに伏すヨブの口に、賛美のことばが授けられた。
なぜヨブはこの状況下で主を賛美できたのだろうか。
それは、何も持つことのできない私、ただ裸でかしこに帰る私。
そんな私が今日まで守られ、生かされているのは、主の愛とあわれみに富む主権によることである。
「与えるのも主権者なる主の最善。
取られることもまた、主権者なる主の最善。」
私を導く神の愛とあわれみに満ちた主権を思い起こし、へりくだらされたのであろう。
今週も私たちを神の子として確かに導く主の主権に信頼して生活したい。
【8月11日】 ヨハネの福音書14章1-6節「天の御国の希望」(召天者記念礼拝)
「道」と言うからには必ずゴールがある。イエス様が紹介した「道」のゴールは「御国」であった。
では、その道はどこに敷かれているのだろうか。弟子のトマスも必死に尋ねている。
イエス様はお答えになった。「わたしが道である。」
イエス様が十字架にかかって死に、よみがえられたことで天の御国への道となってくださった。
この方が招いておられる。
「神を信じ、またわたしを信じなさい。」「わたしが道であるのだ。」
今週もこの方を信じ、この道を歩いて参りたい。
【8月4日】 ヨブ記1章「ヨブという人」
ヨブという人が住んでいた「ウツの地」は、創世記10章23節によれば「東の高原地帯」であり、エドムと北アラビアの間に位置したことが推測される。
ヨブは異教の地で信仰に生きた人だったのである。具体的には、「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」どこにいてもその心を神に向け、悔い改めと赦しに生きた人であった。
そんなヨブに突如苦しみが襲い掛かる。友人たちがエドム付近からヨブを慰めに来る。すべての登場人物が問うていく。
「神がいらっしゃるなら、なぜ信仰者が苦しみに遭うのか」
登場人物たちの発話により、この問いがヨブ記の大きなテーマとして浮かびがってくる。
ところで、ヨブの年代を特定することはできない。預言者エゼキエルの活動期(紀元前6世紀ごろ)より前であることは分かっていても、それが族長時代までさかのぼるのか否かは明かされていない。そして、このことが、ヨブ記のテーマの普遍性を際立たせているのかもしれない。
「神がいらっしゃるなら、なぜ信仰者が苦しみに遭うのか」
だれしも一度は疑問に抱くことではないだろうか。私もその一人である。
全能であり、愛であられる神に今週も聴き続けたい。
主の慰めと励ましが皆さまに豊かに注がれますように。